音楽評論家の中村とうようさん、飛び降り自殺か - MSN産経ニュース
中村とうようさんは、昭和44年に音楽雑誌「ニューミュージック・マガジン」を創刊し、平成元年まで編集長を務めたかたらだそうです。
この時期であれば拓郎とも関係はあったのかと調べてみたら、拓郎を発掘した一人であったんですね。
ソロでコロムビア主催のフォークコンテストに出場。中国大会で課題曲だった「花はどこへ行った」をブルースアレンジで演奏し、2位に終わったものの中村とうようから特別賞が与えられ決勝大会に進出した。ここで自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」を、針金を曲げて作った手製のハーモニカホルダーと改造した12弦ギターで歌う。
対談もあったようです。
ニューミュージックマガジン1972年6月号(¥210)
対談:吉田拓郎、石浦信三、中村とうよう「僕は自分の歌に満足している」
中村 今、あなたがちょっと言ったけどもね、中津川で「岡林信康ひこめ、吉田拓郎を出せ!!」と騒いだ連中が、 今度は逆に「拓郎ひっこめ、あがた森魚を出せ!!」と言ってるんだと、そういう風に感じてる?
拓郎 あがた森魚も、ものすごく売れてきたからね。きっとまた、言われる時期が来るような気がするわけ。
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拓郎 僕なんか番組やってるでしょ、非常におかしいのはね、番組で、あがた森魚の「赤色エレジー」がひんぱんに流れはじめると、「あがた森魚がああいう風 になってくるのは、フォークも地におちた」っていう投書が来るの。いわゆるファンからですけどね...
ご冥福をお祈りします。